2017/12/13 葉書

先日、見慣れない差出人から葉書が届いた。薄墨で書かれているので訃報の知らせだろうと思ってはいたのだが、読んで衝撃を受けた。自分とほぼ同い年の友人の訃報を知らせる彼の細君からのものだったからだ。住んでいる場所が離れているので最近は年賀状のやり取りだけの付き合いになっていたとはいえ、突然の知らせに動揺した。しかも亡くなったのは今年の2月だという。
初めて彼に会ったのは1994年の初夏、中国の新疆ウイグル自治区のカシュガルという町。其尼巴合賓館(Chini Bagh Hotel)のドミトリー。自分はネパールからチベットに入ってヒッチハイクでカシュガルに抜けてきたところで、彼は東から西へシルクロードの遺跡をたどってカシュガルにたどり着いたところだった。ドミトリーのベッドが近かったので自然に話すようになる。いつもインディ・ジョーンズが被っているような帽子を被っていて関西訛り、きれいな中国語を操るのが印象的な男だった。大学を卒業して、中国国内の遺跡を訪ねて回る長い旅をしているとのことだった。大学では考古学を専攻して、考古学者への道を模索している時期だったのだろう。考古学者としての仕事の口はなかなかないのだ、とこぼしていたのを覚えている。自分もぼんやりと写真の道に進みたいとは思っていたものの、何から始めればいいのやらさっぱりわからず、自分の将来に対する漠然とした不安を抱えながら途方に暮れていた時期だった。彼のしてくれる遺跡や考古学に関する話は全く自分の知らない世界の話で非常に興味深かったし、将来に対する期待や不安みたいなものも似たような温度感で共有できていたのだろうと思う。昼間はそれぞれ好きな時間を過ごして、夜になるとドミトリーにいる何人かの日本人旅行者と連れ立って安い中華料理や羊の串焼きを食べに出かけて、新疆ビールを飲みながら旅の話だけにとどまらずいろんな話をした。そんな日々が楽しくて3日くらいで出ようと思っていたカシュガルの街のあまりの居心地の良さに3週間くらいのんびりしていたように記憶している。それから自分はカラコルム・ハイウェイを通ってパキスタンに入り西へ向かい、彼はそのまま中国国内の遺跡を訪ねる旅を続けることになる。しばらくしてお互い帰国。
帰国してから彼は郷里の鳥取県に戻り、自分は東京でなんとか今の仕事を始めた。彼が東京に来る時には会って食事をしたり、年賀状で近況を短く伝えあったりしている付き合いが続く中、ついに彼は念願の考古学と遺跡発掘の研究員としての職を得る。それからもずっと年賀状や文面でのやり取りが続いていた。今年も年賀状の用意をしようとしていた矢先の突然の訃報。
今思えばラインどころかメールすら使わなかったのが不思議だ。カシュガルで会ったあの時、自分たちは「何者か」になりたかった。彼は多分「何者か」になれたのだろうと思う。お互い「何者か」なりたくてもがいていた時期のあの濃い時間を共有した後では今風のSNS的なつながりは必要がなかった。年賀状のはしっこの細かい字で書いた3行くらいの近況を知らせる文章が時間も場所もやっていることの領域も越えてつながらせてくれた。葉書でなくても、そのへんのメモ用紙に書いたメモみたいな短文でもよかったのかもしれない。
もう彼からのポストカードや年賀状が来ることはなく、彼の書いた文字も読むことはできないのだと思うとたまらなく悲しく、寂しい。濱くん、さようなら。安らかな旅立ちをお祈り申し上げます。おれはぜんぜん「何者か」にはなれてないわ。まだまだです。

当時使っていたガイドブックを開いてみる。この地図見ながらみんなで一緒にサンデーマーケット行ったよね。夏前でまだ市場に名物のハミクワが出てなくて食べれなかったっけ。ホテルの近くの清真食堂で食ったラグメンうまかったよな。なつかしい。

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